【NHK】フジコ・ヘミングさんはどんなピアニスト?若い頃から波乱の人生、魂のピアニストと呼ばれ事故で亡くなるまでの軌跡

NHK フジコ・ヘミング どんなピアニスト 若い頃 波乱の人生 魂のピアニスト 事故音楽
NHK フジコ・ヘミング どんなピアニスト 若い頃 波乱の人生 魂のピアニスト 事故

この記事ではNHKなどで紹介され、CDアルバム奇跡のカンパネラ」で世界的に注目されきた魂のピアニストフジコ・ヘミングさんがどんなピアニストなのか、若い頃に片耳の聴力を失ったところから無国籍者になるなど波乱の人生、事故が直接の原因ではありませんでしたが、術後のリハビリ入院中で亡くなるなるまでの軌跡を、フジコ・ヘミングさんへの追悼の気持ちを込めつつ、分かりやすくまとめました。

NHKの番組([NHKスペシャル] 92歳で亡くなったピアニストが音楽に込めた想い | 魂のピアニスト、逝く 〜フジコ・ヘミング その壮絶な人生〜 | NHK)はいつまで公開しているかはわかりませんが、こちらで無料(youtube)で見れました。

  1. 魂のピアニスト、フジコ・ヘミングさんの東京の自宅
  2. 苦しい人生
  3. リストのラ・カンパネラ
  4. 東京の自宅の階段から転落する事故で手術・入院
  5. 92歳でフジコ・ヘミングさん死去
    1. 譜面の後ろにある感情を感じない人はだめだ
  6. フジコ・ヘミングさんの生涯
    1. お母さんがドイツにピアノ留学、ヘミングさんと出会って結婚
    2. 1931年にベルリンで生まれた
    3. 4歳からピアノを始めた
    4. お母さんの演奏するショパンの音が原点に
    5. 小学生の頃からショパンを愛した
    6. 16歳の時に中耳炎をこじらせて右耳の聴力を失う
    7. NHK毎日音楽コンクールで入選
    8. 無国籍の状態だと判明
    9. 1961年に西ベルリンへ
    10. 現地の新聞で「ショパンとリストのために生まれたピアニスト」と紹介される
    11. バーンスタインとウィーンでピアノリサイタルを開くチャンスをつかむ
    12. リサイタル直前の高熱で、残っていた左耳にも大きなダメージを受け、リサイタルも中止に
    13. 涙も枯れて出ない
    14. 1995年、34年ぶりに日本へ帰国
    15. 67歳で一躍時の人に
    16. 67歳の時にNHKの「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」で日本でも知られるように
  7. フレデリック・ショパンゆかりの地、スペインのマヨルカ島
    1. 「ラ・カンパネラ」と巡る旅とコンサートを企画
    2. 2024年春に旅とコンサートを予定していた
    3. 転落事故で骨折
  8. 1999年、67歳 「奇跡のカンパネラ」がクラシックとしては異例の大ヒット
    1. 人生の時々に鳴り響く教会の鐘をイメージ
    2. 壊れそうな繊細な鐘でもいい
    3. 自分の内面を表現できる曲
  9. 「ラ・カンパネラ」はパガニーニの演奏をもとにリストが作曲
    1. 2024年の春にはパガニーニの出生地、イタリアのジェノバでコンサートを計画していた
  10. 自宅では猫を24匹飼っていた
  11. リハビリ専門の病院に転院
    1. ジェノバから始まるツアーを断念
    2. パガニーニゆかりの教会でカンパネラを弾くことがとても重要だと考えていた
    3. フジコさんの病状は改善しなかった
    4. ピアノの蓋を自ら閉じた
  12. ドキュメンタリー映画 「フジコ・ヘミングの時間」

魂のピアニスト、フジコ・ヘミングさんの東京の自宅

魂のピアニストと呼ばれたフジコ・ヘミングさんが亡くなりました。東京の自宅ではBlüthnerというメーカーのピアノを弾いてらっしゃいました。綺麗ですね。もう1台あります、グランドピアノ。服も自分流に仕立て上げました。アクセサリーもこだわりの一品です。思い出の写真、白黒の写真も飾ってあります。心を癒してくれたのは猫たちでした。

苦しい人生

10代の頃に右耳の聴力を失いました。一時期、無国籍者になりました。大きなチャンスをつかみかけ、さらに悲劇がありました。苦しい人生を送ってきました。90歳を過ぎても現役でした。

ショパンのエチュード作品10-3、別れの曲です。華やかな衣装ですね。次はショパンのポロネーズ作品53。コンサートは世界各地で常に満員になりました。

ショパンのエチュード作品10-5「黒鍵」を表情一つ改善に演奏します。ヘミングさんが愛する作曲家のものばかりです。多くのファンが引き付けられていくのも分かりますね。

リストのラ・カンパネラ

リストのラ・カンパネラ。この曲が彼女の代名詞となって、魂のピアニストと呼ばれるようになりました。他の誰とも違う、誰にも真似できない音ですよね。スペインでのコンサートではお客さんもスタンディングオベーションです。お客さんも興奮しています。「これは奇跡だ。彼女のエネルギーは他にはない、魔法のような瞬間」と絶賛されていました。あの年齢でこのエネルギーはすごいですよね。

2023年にはポーランドでコンサートを行いました。ショパンの幻想即興曲作品66。この狭い室内楽用の部屋でのコンサート。お客さんとの距離が近くていいですよね。

東京の自宅の階段から転落する事故で手術・入院

しかしこの素敵なコンサートの42日後、2023年11月2日、東京の自宅の階段から転落してしまいました。腰椎骨折、脊髄損傷の大怪我で緊急手術を受けることになりました。2024年に入って膵臓癌も見つかりました。痛みが続いていました。電子ピアノで車椅子で練習をしたり、その後はグランドピアノの前に行きました。しかし、何か感覚が違うようです。

92歳でフジコ・ヘミングさん死去

2024年4月21日午前3時25分、92歳でフジコ・ヘミングさんが亡くなりました。

2019年にはまだまだお元気な姿で、「完成なんて人間にはありえない。どんな人もどんな芸術家も、これでいいのかなって。天国に行ったら、(自分の演奏がどうだったか)モーツァルトに聞いてみたい」とい語っていました。「天国なんてないという人もいるけど、空にはたくさんの星がある。あの中のどこかにいるに違いない」とも語っていました。晩年は体も衰えてきて、背中も大きく曲がってきていましたが、それでも世界中を精力的に駆け巡りました。

東京のフジコ・ヘミングさんの自宅は3階建て。3階の部屋にピアノはありました。ビルのようなお宅ですね。家でも素敵な服で弾いています。

譜面の後ろにある感情を感じない人はだめだ

「ピアノを、上手くなろうと思ったら、楽器を上手くなろうと思ったら、コーラス・合唱団に入って歌ってるように弾けるようになりさい」と言われ、素直に合唱団に入りました。

「最近の人は、拍子だけで、譜面通りに弾く。あんなのではしょうがない」と言います。「譜面の後ろにある感情を感じない人はだめだ」と語っていました。

フジコ・ヘミングさんの生涯

お母さんがドイツにピアノ留学、ヘミングさんと出会って結婚

Blüthnerは100年前に製造されたドイツ製のピアノです。フジコ・ヘミングさんのお母さんが1927年にドイツにピアノ留学した際に手に入れたものです。フジコ・ヘミングさんもこのピアノで子供の時に勉強しましたが、当時はボロボロでした。お母さんは全然お構いなしでした。恐らくその頃は直してくれる人もいませんでした。

お父さんはスウェーデン人のデザイナーで、ジョスタ・ヘミングさんです。お母さんの投網子(とあこ)さんは留学中のドイツで、ヘミングさんと出会って結婚しました。

1931年にベルリンで生まれた

1931年にフジコさんがベルリンで生まれたそうです。フジコ・ヘミングさんはお母さんとお顔がそっくりですね。

翌年に両親が日本に帰国しました。

4歳からピアノを始めた

フジコさんは4歳からピアノを始めました。お母さんからピアノを習ってすぐ怒鳴りつけられて、「機械のように揃えろ」と言われました。「ちゃんと揃えて、機械のように弾け」と言われました。コンクールで1位になれることを目指しました。今では、そんな単調な演奏していてはお客さんは集まりません。

アルバムにはお父さんの写真も残っています。お父さんは1931年、日本での生活に行き詰まって、スウェーデンに帰国しました。日本にはそれから一度も来られることはありませんでした。

お母さんはピアノ教師として働きました。弟はウルフさん。俳優になられたそうです。

お母さんの演奏するショパンの音が原点に

お母さんのを演奏するショパンの音が原点になりました。ショパンのノクターン、子供の頃は夜8時に寝かされて、隣からピアノの音が聞こえてきます。ゆっくりした曲が「何て良いんだろう」と思いました。ノクターン作品9-2、ショパンです。

小学生の頃からショパンを愛した

フジコさんは小学生の頃、ショパンの曲が弾けるようになり、お母さんの厳しい指導で嫌いだったピアノがとても好きになりました。ショパンを愛しました。終生弾き続けました。「ショパンは恋人。天国に行ったら会いたい」と言っていました。

16歳の時に中耳炎をこじらせて右耳の聴力を失う

壮絶な人生でした。16歳の時に中耳炎をこじらせて右耳の聴力を失いました。学校の授業もついていけなくなりました。とても悲しくなりました。聞こえる左耳に頼りにピアノを続けました。右と左の音量のバランス調整が難しかったでしょうね。

NHK毎日音楽コンクールで入選

東京芸術大学に通い、21歳の時にNHK毎日音楽コンクールで入選しました。

無国籍の状態だと判明

お母さんと同じようにドイツに留学してみたいと思うようになりました。しかし、当時西ドイツに留学手続きをしたところ、フジコさんは日本人でもなく、スウェーデン人でもなく、戦後の混乱の中、国籍選択の手続きをしておらず、無国籍の状態でした。日本の国内からはどこにも出られませんでした。

しかし、「これは大変だ」と言って、ドイツの大使が自分のファンになってくれて、すごく応援してくれました。赤十字の避難民のパスポートを作ってくれて、やっとドイツへ行けるようになりました。

1961年に西ベルリンへ

1961年に西ベルリンへ向かいました。29歳の時です。ドイツには無国籍の人がたくさんいました。ロシアからハンガリーに逃げてきた人がたくさんいました。ドイツに行っても、他の日本人の留学生がなぜかとても自分には冷たかったです。無国籍と書いてあったので、何か理由があったかもしれません。

現地の新聞で「ショパンとリストのために生まれたピアニスト」と紹介される

フジコさんの演奏を使用したドイツの新聞記事を大切にしていました。「ショパンとリストのために生まれたピアニスト」と紹介されていました。

バーンスタインとウィーンでピアノリサイタルを開くチャンスをつかむ

西ベルリンからオーストラリアのウィーンへ拠点を移しました。日本を出て8年後、1969年に大きなチャンスを掴みました。世界的な指揮者で作曲家のレナード・バーンスタインとウィーンでピアノリサイタルを開くことになりました。街中にはポスターも貼り出されていました。

リサイタル直前の高熱で、残っていた左耳にも大きなダメージを受け、リサイタルも中止に

しかし、ここでフジコさんに悲劇は起きました。リサイタル直前に高熱を出して、残っていた左耳にも大きなダメージを受けて、コンサートが中止になってしまったんです。

涙も枯れて出ない

40代50代はドイツでピアノ教師として生計を立てるしかありませんでした。涙も枯れて出ませんでした。「だめだ、涙が枯れてしまうことはある」と語ります。

リストの「ため息」という曲もやはりフジコ・ヘミングさんしか弾けない音ですね。

1995年、34年ぶりに日本へ帰国

そして、お母さんの死がきっかけで、1995年、34年ぶりに日本へ帰国しました。

67歳で一躍時の人に

そして、1999年に「奇跡のカンパネラ」が大ヒットしました。67歳で一躍時の人となりました。

67歳の時にNHKの「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」で日本でも知られるように

1999年67歳の時にNHKの「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」というドキュメンタリー番組をきっかけに日本でも多くの方に知られるようになりました。

フレデリック・ショパンゆかりの地、スペインのマヨルカ島

フレデリック・ショパンは1810年にポーランドで生まれました。パリで名声を得ましたが、将来祖国へ戻れませんでした。1838年にスペインのマヨルカ島に行って、作家のジョルジュ・サンドと逃避行しましたよね。そして、この間に多くの名曲を作曲しています。いつかマヨルカ島に訪ねたいと思っていました。いろんな本を何度も読んで、行きたいなと思っていました。

2022年の9月にやっと行けることになりました。体力のある最後のチャンスだと思いました。ショパンが大事な時を過ごしたヴァルデモッサ(世界遺産)のカルトゥハ修道院、ここでコンサートを開くことにしました。ショパンは幸せな人生ではなかったですが、その悲しみが自分に伝わってくると言います。

エチュード作品10-12「革命」です。ショパンの曲をこの場所で6曲演奏されました。本当に狭い部屋でコンサートを行ったんですね。窓も開けっぱなしです。言葉に出ないぐらい感激しました。

「これからどうしますか?」と聞かれました。「あとどのくらい弾けるのか・・・」と答えるしかありませんでした。翌年、2023年にはもう歩行器を使いながら歩いています。

「ラ・カンパネラ」と巡る旅とコンサートを企画

でも、やりたいと思ったことがありました。リストの「ラ・カンパネラ」を演奏します。フジコさんの人生を羽ばたかせてくれた「ラ・カンパネラ」と巡る旅とコンサートでもあります。

2024年春に旅とコンサートを予定していた

ロイヤルオペラハウスのコンサートマスターのバスコ・バッシュレフさんとスロバキア国立放送楽団の音楽監督だったマリオ・コシックさんにサポートを求めました。2人ともこの曲の特別な評価をしています。

転落事故で骨折

2024年春に旅とコンサートを予定していましたが、2023年11月に転落事故で骨折をしてしまいました。手術して数日後でも「ピアノがないとだめだ、小さなピアノでもいい」とおっしゃっていました。バイオリニストのバスコさんが急遽お見舞いに訪れます。92の誕生日を迎えて2日後でした。誕生日をお祝いしてくれました。まだ薬の影響でうまくしゃべれないくらいなのに、ピアノを持ち込んで弾き始めました。何度も「聞こえない」とおっしゃいます。

そんな状況でもフジコさんはコンサート実現のことだけを考えていました。

 

1999年、67歳 「奇跡のカンパネラ」がクラシックとしては異例の大ヒット

1999年、67歳の時に発表した「奇跡のカンパネラ」がクラシックとしては異例の大ヒットとなりました。

人生の時々に鳴り響く教会の鐘をイメージ

コンサートでは立ち見が出るぐらいのお客さんが来るようになりました。ラ・カンパネラはイタリア語で「小さな鐘」という意味です。人生の時々に鳴り響く教会の鐘をイメージさせる彼女の独特の音作り、演奏が反響を呼び、代名詞になりました

壊れそうな繊細な鐘でもいい

「世界で一番上手いなんて思ってるわけではないけど、自分の「カンパネラ」が一番気に入っている。最も工夫を凝らして作った鐘で、一つ一つに魂が入っている。壊れそうな繊細な鐘でもいい、私は壊れそうな繊細な芸術家が好き。機械ではない」と何度も繰り返していました。

自分の内面を表現できる曲

指揮者の方からは、「何度も「ラ・カンパネラ」を演奏しました。それはお客さんから評判が良かったというだけでなく、彼女はこの「カンパネラ」の曲を自分の内面を表現できるものだと捉えていたのではないか」と感じていました。

「ラ・カンパネラ」はパガニーニの演奏をもとにリストが作曲

1780年から1840年、悪魔に魂を売ったと言われるぐらいのバイオリンの名手だったニコロ・パガニーニが作曲したバイオリン協奏曲第2番第3楽章が原曲になっています。

ピアニストのフランツ・リスト(1811年から1886年)は、パガニーニの生演奏を聞いて強い印象を受けて「ラ・カンパネラ」の曲を作りました。

2024年の春にはパガニーニの出生地、イタリアのジェノバでコンサートを計画していた

フジコさんは2024年の春にはパガニーニの出生地、イタリアのジェノバを訪れて、作曲者リストゆかりの地を巡って、作曲家の魂や背景に触れたいと思いました。同時にコンサートをやりたいと計画していました。

アメリカのサンタモニカにも自宅があります。公演の何ヶ月も前からピアノ協奏曲第1番の練習をしていました。

バイオリニストのバスコさんは、コンサートでの共演を楽しみにしていました。日本とヨーロッパでコンサートツアーを行う計画でした。カンパネラに関係する曲ばかり計画していましたが、フジコさんが事故に遭ってしまいました。演奏会のわずか数ヶ月前です。リストのピアノコンチェルトを全部練習してたので残念です。フジコさんは寝返りも打てない状態でした。検査で膵臓癌も見つかっていました。

自宅では猫を24匹飼っていた

自宅にいる猫たちのことも気にかかります。フジコさんは生涯独身でした。猫たちがいつも寄り添っていてくれました。24匹飼っていました。動物が好きでした。「猫がいなかったら今の私はいなかっただろう」というぐらい大事な役割です。「医者よりもずっと癒してくれる」と語っていました。

 

リハビリ専門の病院に転院

2024年2月には、リハビリ専門の病院に転院していました。怪我による下半身麻痺があったほか、腕や指も動きにくくなっていて、この時にはほとんど耳が聞こえなくなっていました。耳に大きな筒を当てて喋ってもらっていました。または紙に書いてもらって、それを見て読んでいました。

リストの家に行った時には、彼が信仰にとても篤いことが気に入りました。後に彼は牧師になりました。彼のお父さんかおじいさんも牧師さんでした。

入院生活が3ヶ月になっていました。リハビリは大変です。ピアノを弾きたくないと言っていました。「分からない」と意思はすごくしっかりしていましたが、少し落ち込んだ様子も垣間見えました。

ジェノバから始まるツアーを断念

パガニーニ生誕の地、ジェノバから始まる旅を断念するしかありませんでした。バスコさんが代わりにジェノバを訪ねてくれました。サンフィ・リポネリ教会は、パガニーニゆかりのある教会です。とても大きくて綺麗な教会ですね。パガニーニもここで幼少の頃から天才と呼ばれ、演奏しました。

パガニーニゆかりの教会でカンパネラを弾くことがとても重要だと考えていた

この曲をパガニーニの聖地でカンパネラを弾きたいと思っていました。この場所でカンパネラを弾くことがとても重要だと考えていました。スタインウェイへの前身時代の古い貴重なピアノがあります。パガニーニのバイオリン協奏曲第2番第3楽章「カンパネラ」を、代わりにバスコさんが一人で演奏してきました。素晴らしい反響です。ここでコンサートができたらどんなに素晴らしいかったことでしょう。

そして、バスコさんはこの場所でフジコさんが回復するように深い祈りを捧げました。

フジコさんの病状は改善しなかった

フジコさんの病状は改善せず、気持ちは揺れ動いていました。しかし、医師の勧めもあってリハビリを兼ねて、病院の1階にあるグランドピアノの前にやってきました。目もほとんど見えなくなっていましたが、鍵盤に指を置きました。しばらくしてから弾き始めたのは、幼い頃から親しんできたモーツァルトのソナタでした。しかしこれもだいぶ苦労しているようでした。

ピアノの蓋を自ら閉じた

そしてピアノの蓋を自ら閉じてしまいました。この日がフジコさんがピアノに触れた最後の日となってしまいました。「人間には完成なんてありえない。天国にあったら、モーツァルトでもショパンでも会って、あれで良かったか聞いてみたいと思う」と語っていました。

ドキュメンタリー映画 「フジコ・ヘミングの時間」

フジコ・ヘミングさんの初めてのドキュメンタリー映画「フジコ・ヘミングの時間」が2024年5月17日に公開され、その後、各地で追悼上映が行われています。上映スケジュールはこちら

心からご冥福をお祈りいたします。

error:Content is protected !!コンテンツは保護されています。
タイトルとURLをコピーしました